沖縄旅行で人気の観光地

infomation

玉陵

戦車(せんしゃ)は装甲戦闘車輌の一種。履帯で走行し、火砲を搭載した旋回砲塔を持ち、なおかつ強固な装甲防御を持つ。現代の戦車はほぼ主力戦車(Main battle tank、MBT)の事を指し、走攻守の能力バランスに優れた兵器である。戦車は戦う車の総称ではないため、自走砲や装甲車とは区別される。 戦車の砲弾で敵主力の戦車の装甲を破壊し、自らは敵戦車の砲弾を正面で受けても長距離ならば破壊されない装甲を持つことが多くの戦車の目標とされている。20世紀末からは砲弾や対戦車ロケット弾が装甲よりも優勢であるが、対戦車兵器でなければ容易に破壊出来ず、正確な射撃によって攻撃出来る戦車は陸上戦闘の主役となっている。 第一次世界大戦時に塹壕戦の突破を目的とした兵器として開発された。戦間期から第二次世界大戦にかけて多種多様な形態の戦車が登場し、戦場で評価されていった。詳しくは戦車#戦車の発展を参照のこと。 第二次世界大戦によって機甲部隊の戦術が確立されると、求められる任務の大半をこなせる主力戦車に集約された。それまで任務によって細分化されていた戦車の種類は今日では主力戦車にほぼ統合されているが、主力戦車を投入しにくい環境に合わせて軽戦車や空挺戦車や水陸両用戦車が使用される場合がある。 イギリスで作られた世界最初の戦車は、当初「水運搬車(Water Carrier)」という秘匿名称が付けられていた。イギリスでは委員会をその頭文字で呼ぶ風習があり、戦車開発のために委員会が設置されたが「W.C.(便所)委員会」では都合が悪い。そこで「T.S.(Tank Supply=水槽供給)委員会」と呼ぶことにした。これにより戦車は「タンク」と呼ばれるようになり、のちに正式名称になった。この語源については「戦車を前線に輸送する際に偽装として『ロシア向け水タンク』と呼称した」など諸説あるものの、以後戦車一般の名称として定着した。 日本においては「war cart」を直訳し「戦車」と呼ばれている。ただし、第二次世界大戦後の自衛隊は攻撃的名称を忌避して、「特車」と呼称していたが、昭和37年1月に従来の「戦車」に戻された。 中国語では「戰車」は古代戦車(chariot)を意味し、セミナー は tank を音写して「坦克」と呼んでいる。 ドイツ語では Panzerkampfwagen(装甲・戦闘・車輌)の略称として Panzer (パンツァー)が一般的である。本来 Panzer は英語の Armour と同様に中世騎士の金属製の甲冑・鎧を意味するが、現在ではこの意味では Panzer よりも Rustung という表現が多く使用されている。英語でも Panzer という語は第二次世界大戦のドイツ軍戦車を指す一般名詞と化しており、また日本でも同名の戦車専門誌が発行されている。 戦車の名称は、兵器としての制式名称と、軍や兵士達によって付けられた愛称とに大別される。愛称については配備国により慣例が見られる。アメリカは軍人の名前から(もともとは供与先のイギリス軍による命名)、ドイツは動物の名前、ソ連・ロシアの対空戦車は河川名に因んでいる。イギリスの巡航(Cruiser)戦車や戦後の主力戦車では「C」で始まる単語が付けられている。日本は旧軍では皇紀、自衛隊では西暦からきた制式名で呼ばれ、前者の場合、カテゴリーや開発順を表す秘匿名称(例・チハ…チ=中戦車のハ=いろは順の三番目)もつけられており、各国の国民性も垣間見られる。 何を以って戦車と定義するかはトラック買取 な部分もあり、またそれは時代や国・地域によって変化する。 現在では大まかに 全周旋回砲塔を有すること 装甲化されていること 無限軌道(履帯)であること 主に敵の車両ないし陣地を砲撃によって破壊することが目的であること などが挙げられる。 ただし、前述のとおり戦車の定義にはある程度曖昧な部分があり、運用する側が戦車と呼べば戦車扱いされる可能性もある。例えば、陸上自衛隊が導入を予定している機動戦闘車は装輪式でありながら運用方法が類似し、105mmという戦車砲並みの監視カメラ 径砲を有することから、財務省はこれを戦車と定義しようとして、それに反対する防衛省と議論が続いている。 1916年、ソンムに於けるMk. I 戦車 "雄型"近代工業化による内燃機関の発達にあわせて、第一次世界大戦前より各国でのちに戦車と呼ばれる車輌の構想が持たれるようになっていたが、技術的限界から実現されることはなかった。 第一次世界大戦で主戦場となったヨーロッパでは大陸を南北に縦断する形で塹壕が数多く掘られたが、初期の装甲車では巧妙に構築された塹壕線、機関銃陣地、有刺鉄線などを突破することが出来なかった。鉄条網と機関銃による防御側の絶対優位により生身で進撃する歩兵の損害は激しく、歩兵と機関銃を敵の塹壕の向こう側に送り込むための装甲車両が求められることとなった。また第一次世界大戦では敵対する両軍が互いに激しい砲撃の応酬を行った為、両軍陣地間にある無人地帯は土がすき返され、砲弾跡があちらこちらに残る不整地と化して装輪式車両の前進を阻んでいた。これらの閉塞状況を打破するため、歩兵支援用の新兵器の研究が各国で開始された。このとき注目されたのが、1904年に実用化されたばかりのホルトトラクターであった。これはアメリカのホルト社(現在のキャタピラー社)が世界で最初に実用化した履帯式のトラックで、前線での資材運搬や牽引に利用されていた。 ホルトトラクターを出発点に、イギリス、フランスなどが履帯によって不整地機動性を確保することをもくろんだ装軌式装甲車両の開発をスタートさせた。 イギリスでは、飛行場警備などに装甲車を運用していたイギリス海軍航空隊が陸上軍艦(Landship)の提案を行い、1915年3月、当時海軍大臣であったウィンストン・チャーチルの肝いりにより、海軍設営長官を長とする「陸上軍艦委員会」が設立され、装軌式装甲車の開発が開始された。陸上軍艦委員会による幾つかのプロジェクトののち、フォスター・ダイムラー重砲牽引車なども参考にしつつ、1915年9月にリトルウィリー(LittleWille)を試作した。包茎 自体は、塹壕などを越える粗大ゴミ が低かったことから実戦には使われなかったが、改良を加えられたマザー(Mother)が1916年1月の公開試験で好成績を残し、マーク I 戦車のもととなった。 Mk.I戦車が初めて実戦に投入されたのが1916年9月15日、ソンム会戦の中盤での事だった。 世界初の実戦参加であったソンム会戦でMK.I戦車は局地的には効果を発揮したものの、歩兵の協力が得られず、またドイツ軍野戦砲の直接照準射撃を受け損害を出した。当初想定されていた戦車の運用法では大量の戦車による集団戦を行う予定であったが、このソンムの戦いではイギリス軍が投入できる戦車の数は50輌弱と少なく、結局膠着状態を打破することは出来ず連合国(協商国)の戦線が11km余り前進するにとどまった。 その後の1917年11月20日のカンブレーの戦いで世界初となる大規模な戦車の投入を行い、300輌あまりの戦車による攻撃は成功裏に終わった。この攻撃で形成された突起部はその後のドイツ軍の反撃で奪い返され、投入した戦車も半数以上が撃破されたが、戦車の有用性が示された攻撃であった。しかし、第一次世界大戦中にフランス、ドイツ等も戦車の実戦投入を行ったものの、全体として戦場の趨勢を動かす存在にはなり得なかった。 戦間期に開発された脱毛 の多砲塔戦車T-35初めて「戦車」としての基本形を整えたのは第一次大戦中に登場したフランスのルノーFT-17軽戦車であった。 それまでの車台に箱型の戦闘室を載せる形ではなく、直角に組み合わせた装甲板で車体を構成した。横材となる間仕切りで戦闘室とエンジン室を分離し、エンジンの騒音と熱気から乗員を解放した。小型軽量な車体と幅広の履帯、前方に突き出た誘導輪などによって優れた機動性を備えており、良好な視界を得るために設けた全周旋回砲塔は単一の装砲での360度の射界を確保した。