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壷屋焼物博物館
ベートーヴェンはカトリックであったが敬虔なキリスト教徒とはいえなかった。『ミサ・ソレムニス』の作曲においてさえも「キリストなどただの磔(はりつけ)にされたユダヤ人に過ぎない」と発言した。ホメロスやプラトンなどの古代ギリシア思想に共感し、バガヴァッド・ギーターを読み込むなどしてインド哲学に近づき、ゲーテやシラーなどの教養人にも見られる異端とされる汎神論的な考えを持つに至った。実際、ベートーヴェンが神と述べた時は、キリスト教的な人格神と、汎神論的に遍在する神と2つの意味を同時に持っていることが多い。彼の未完に終わった『交響曲第10番』においては、キリスト教世界と、ギリシア的世界との融合を目標にしていたとされる。これはゲーテが『ファウスト』第2部で試みたことであったが、ベートーヴェンの生存中は第1部のみが発表され、第2部はベートーヴェンの死後に発表された。権威にとらわれない宗教観が、『ミサ・ソレムニス』や『交響曲第9番』につながった。
また、同時代の
家庭教師
を代表する芸術家E.T.A.ホフマンは、ベートーヴェンの芸術を褒め称え、自分たちロマン派の陣営に引き入れようとしたが、ベートーヴェンは当時のロマン派の、形式的な統一感を無視した、感傷性と感情表現に代表される美学からは距離を置いた。ベートーヴェンが注目したものは、同時代の文学ではあくまでもゲーテやシラー、また古くはウィリアム・シェイクスピアらのものであり、本業の音楽ではバッハ、ヘンデルやモーツァルトなどから最も影響を受けた。
その他にも、フランス革命とその後の保守反動の嵐の時代に生きたベートーヴェンは、リベラルで進歩的な政治思想を持っていた。哲学者カントの思想に接近し、カントの講義に出席する事も企画していた。天文学についての書物を深く読み込んでおり、彼はボン大学の聴講生やヴェーゲナー家での教育を受けた以外正規な教育は受けていないにも関わらず、当時においてかなりの教養人であった。
政治的には
店舗デザイン
であり、このことを隠さなかったためメッテルニヒのウィーン体制では反体制分子と見られた。
身長は167cm前後と西洋人にしては小柄ながら、筋肉質のがっしりとした体格をしていた。肌は浅黒く、天然痘の痕で酷く荒れており、決してハンサムとはいえなかったが、表情豊かで生き生きした眼差しが人々に強い印象を与えた。
基本的に服装に無頓着であり、若い頃の服装はエレガントであったが、歳を取ってからは一向に構わなくなった。
レーシック
のチェルニーは初めてベートーヴェンに会った時、「ロビンソン・クルーソーのよう」という感想を抱いたし、作曲に夢中になって無帽で歩いていたため浮浪者と誤認逮捕され、ウィーン市長が謝罪する、という珍事が起こったこともある。部屋の中は乱雑さを極めていたが、風呂と洗濯は好み、また生涯で少なくとも70回以上引越しを繰り返したことでも知られている。当時のウィーンでは、ベートーヴェンが変わり者であることを知らない者はいなかったが、にもかかわらず、どの作曲家よりも尊敬されていたという。
性格は矛盾に満ちていて、ことのほか親切で無邪気かと思えば、厳しく冷酷になったりと気分の揺れが激しかった。生来の情愛の深さも、無遠慮さのため傲慢で野蛮で非社交的という評判であった。
師ハイドンに楽譜に「ハイドンの教え子」と書くよう命じられた時は、「私は確かにあなたの生徒だったが、教えられたことは何もない」と突っぱねた。
パトロンのリヒノフスキー侯爵には、「侯爵よ、あなたが今あるのはたまたま生まれがそうだったからに過ぎない。私が今あるのは私自身の努力によってである。これまで侯爵は数限りなくいたし、これからももっと数多く生まれるだろうが、ベートーヴェンは私一人だけだ!」と書き送っている。1812年
テプリツェでゲーテと共に散歩をしていて、オーストリア皇后・大公の一行と遭遇した際も、ゲーテが脱帽・最敬礼をもって一行を見送ったのに対し、ベートーヴェンは昂然として頭を上げ行列を横切り、大公らの挨拶を受けたという。後にゲーテは「その才能には驚くほかないが、残念なことに不羈奔放な人柄だ」とベートーヴェンを評している。
ベートーヴェンは20代後半から始まった難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない状態にまで陥った。また、慢性的な腹痛や下痢は終生ベートーヴェンの悩みの種であった。死後に行われた解剖では肝臓・腎臓脾臓他多くの内臓に損傷が見られた。これらの病の原因については諸説あり、定説はない。近年、ベートーヴェンの毛髪から通常の100倍近い鉛が検出されて注目を集めた。鉛は聴覚や精神状態に悪影響を与える重金属であるが、ベートーヴェンがどのような経緯で鉛に被曝したかについても諸説あり、定説はない(例えば、ワインの甘味料として用いられた酢酸鉛である、または、1826年の1月から肝障害による腹水の治療を行ったAndreas Wawruch医師が腹部に針で穴を開けて腹水を排水した時、腹部に穴を開けるたびに髪の毛の解析では鉛濃度が高くなっていることから、傷の消毒のために使用された鉛が疑われる、等)。
『交響曲第5番』の冒頭について「
スキャナ
はこのように戸を叩く」と語ったことや、『ピアノソナタ第17番』が“テンペスト”と呼ばれるようになったいきさつなど、伝記で語られるベートーヴェンの逸話は、自称「ベートーヴェンの無給の秘書」のアントン・シンドラーの著作によるものが多い。しかし、この人物は嘘が多く、ベートーヴェンの死後、自分の立場が有利になるよう資料を破棄したり改竄を加えており、それらの逸話にはほとんど信憑性が認められてないことに注意が必要である。
聴覚を喪失しながらも音楽家として最高の成果をあげたことから、ロマン・ロランをはじめ彼を英雄視・神格化する人々が多く生まれた。いわゆる「ベートーヴェン神話」は沈静化したものの、現在でも聴衆や評論家が、客観的な音楽事象より、ベートーヴェンの逸話を鑑賞の際に重視し、ベートーヴェンを理解しようとする傾向にある事は否めない。
原語であるドイツ語ではルートヴィヒ・ファン・ベートホーフェン[?lu?tv?c fan ?be?tho?f?n]、英語ではルードウィグ・ヴァン・ベイト(ホ)ウヴェン[lu?dw?g van beit(h)ouv?n]といった発音をされる。中国では外来語のvをfまたはwの
予備校
と見なすので、「貝多芬(Beiduofen)」となる。
日本でも明治時代の書物の中には「ベートーフェン」と記したものが若干あったが、程なく「ベートーヴェン」という記述が浸透していき、リヒャルト・ワーグナーのように複数の表記が残る(ワーグナー、ヴァーグナー、ワグネル)こともなかった。唯一の例外は、NHKおよび教科書における表記の「ベートーベン」である。
姓に“van”がついているのは、ベートーヴェン家がネーデルラント(フランドル)にルーツがあるためである(祖父の代にボンに移住)。vanがつく著名人といえば、画家のヴァン・ダイク(Van Dyck)、ファン・エイク(van Eyck)、ファン・ゴッホ(van Gogh)などがいる。
vanはドイツ語、
クーリング オフ
では「ファン」と発音されるが、貴族を表す「von(フォン)」と間違われることが多い。「van」は単に出自を表し、庶民の姓にも使われ、「van Beethoven」という姓は「ビート(Beet)農場(Hoven)主の」という意味であるが、当時のヴィーンではベートーヴェンが貴族であると勘違いする者も多かった。
また、日本では「楽聖」という呼称が用いられる場合がある。現代では単に「偉大な音楽家」という意味で他の音楽家たちにも冠されることがあるが、元々はベートーヴェンを指す。例えば3月26日の楽聖忌とはベートーヴェンの命日のことである。