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また、アメリカに合わせて武力行使を積極支持したイギリス・ブレア政権の閣僚が相次いで辞任を表明し、政府の方針に反対した。3月17日クック枢密院議長兼下院院内総務、3月18日ハント保健担当・デナム内務担当両政務次官が辞任。結果としてブレア首相は議会の承認を早急に採りつける必要に迫られた(BBCニュースの記事に更に詳細なリストがある)。
ラムズフェルド国防長官が国連でイラクが大量破壊兵器を保持していることを主張する演説を行ったがその表情から本当はイラクが大量破壊兵器を持っていないと言うことが明らかになった。それまでも本当に大量破壊兵器を持っているのか疑問視する声があったがこの演説で誰もが事実を掌握した。
ブッシュ大統領は開戦前後の演説における戦争理由として以下を挙げた。
生物・化学兵器等、大量破壊兵器を保有し続け、その事実を否定し、国連の武器査察団に全面的な協力を行わない(部分的な協力に止まっている)ことに対する武力制裁のため。(但し、これについてはブッシュ大統領自身が後に撤回した。イラク武装解除問題参照)
イラクの一般市民をサッダーム・フセイン大統領の圧政から解放するため。
テロリストに対する支援国であるイラクを「民主的な国」に変えるため(対テロ戦争の一環)。
フランスとロシアが石油や開発プロジェクトを巡ってイラクと良好な関係にあり、イラクに武器輸出をしていて、武力行使に対して両国が慎重な姿勢を崩さなかった背景にはその利益を守ろうとする動機があったともいわれている。イラク軍の保有する近代兵器の大半はロシア、フランス製である[18]。同時にアメリカと一線を画し、反戦を訴えることで国際地位の向上を目指したともとる事ができる[要出典]。また、ペルシャ湾への空母「シャルル・ドゴール」派遣を準備していたにも関わらず中止したフランスはイラクに多額の借款を持っており、戦争による体制の崩壊で当該借款が回収不能になることが危惧された。
ペンタゴンに集まるイラク戦争に関するデモ参加者 (2007年3月)開戦直後の各国の反応は以下の通りであった。
イギリスのブレア首相は政府声明として、アメリカの武力行使を支持し、共に参戦すると表明。参戦の際の声明では、かつてウィンストン・チャーチル元首相が発した「陸海空から」という文言が用いられた。
日本の小泉純一郎首相(当時)は記者会見で、「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします[19]」と表明した。後に明らかになったことだが、小泉の同声明は外務省の事務方が用意した文書よりも踏み込んだ内容になっている。文書では「理解する」との表現が盛り込まれていたが、開戦の際の記者会見では小泉は「支持」という踏み込んだ文言を用いた。日本は単に支持するだけでなく、開戦前から米国に賛同するよう安保理理事国に働きかけていた。また、開戦直前の3月19日、衆議院外務委員会で川口順子外相は「フランスは甘えている」とアメリカに従わなかったフランスを批判した。
オーストラリアは空軍の戦闘攻撃機、海軍のフリゲート、特殊部隊を派遣。
フィリピンは支持。中国、ロシア、欧州連合、アラブ連盟は非難。
イスラエルはイラクからのミサイル攻撃に対して即時報復の構え。国内では非常事態体制に入り、ガスマスクの携帯を勧めた(生物・化学兵器への備え)。
イラク政府はこの戦いを聖戦(ジハード)であるとした。
国際連合のコフィー・アナン事務総長は強い遺憾の意を表明。
韓国は3月21日の臨時閣議で、600人以内の建設工兵支援団と100人以内の医療支援団を派遣することを決定。だがその後、議会で反対に遭い、与党の分裂などもあって派遣が実現するかどうかは不透明化した。4月2日の国会での演説で、盧武鉉大統領は再び派兵の承認を議会に要請。
アメリカ国内では非常用品、更に拳銃・ライフル・散弾銃の売り上げがなぜか増加した。
戦争開始後、世界各地での反戦デモが繰り広げられ、一部の国では規制しようとする警察と小競り合いが起き、負傷者や逮捕者が出るほど激化した。著名アーティスト達は揃って攻撃を非難。これと同時にワシントンにおいては開戦を支持するデモも大規模に行われた。
3月27日の国連安全保障理事会の
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において、英米側が戦争の正当性を主張。ロシア、中華人民共和国、イラクなどがこれに批判的な発言を行った。
4月1日、フランスのド=ビルパン外相は、テレビのインタビューで英米への支持を表明、良好な関係を保つことの重要性を強調した。また、フランスは開戦前にフランス領空のアメリカ空軍機の自由通過を承認。開戦後にフランス海軍、ドイツ海軍はサウジアラビア近海に展開。ロシア海軍も開戦から1ヶ月以上経ってからサウジアラビア近海及びインド洋に展開した。
4月14日、アメリカ政府はシリアを非難。イラクの政府要人などを匿い、化学兵器を所持していることなどを理由としたものだが、これは当のシリアは元よりフランス外相、国連事務総長などの反発を招いた。
日本ではNHKは発生した時間から68時間報道を行った。また民放各局はお昼のニュース枠より通常放送を中止し、深夜まで全国放送を行った。3月21日より通常の編成に戻ったが『JNNニュース』(TBS)、『産経テレニュースFNN』(フジテレビ(日曜))などはパーティシペーションで放送された。
イラク全図2003年3月19日に開戦を宣言すると、翌3月20日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した。ウムカスルやルメイラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らうが制圧。鉄道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユーフラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4月にバグダッドで合流して突入、これを攻略した。この攻略に際して米進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出し、バグダッド市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃のため市内を出たところ空爆によって大半が破壊された。これは市内での空爆の困難さからうまく市街地の外に戦車などを出す戦術ともいえる。
合わせて北部のモスル、ティクリート、キルクークには空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に1ヶ月強というすさまじい速さでの占領であった。その迅速さは戦争開始前後から積極的にメディア工作をおこなっていたサッハーフ情報大臣がバグダッドの平穏を強弁しているその後ろを米軍戦闘車両が通過する、といった映像が放映される一幕を演出するほどであった。
戦闘の経過
前線に配備されたアメリカ
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のヘリコプター、HH-60 ブラックホーク(2003年4月2日)投入された兵力は1991年の湾岸戦争が66万人であるのに比較して、26万3千(アメリカ陸軍とアメリカ海兵隊で約10万、イギリス軍3万。海空軍、ロジスティク、インテリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約21万4千、イギリス軍4万5千、豪2千、ポーランド2.4千)と非常に少ない。GPS誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊するドクトリンとした。
これは、湾岸戦争後にコリン・パウエルによって提唱された「パウエル・ドクトリン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)と対照的である。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。
この計画を積極的に提唱したのはラムズフェルド国防長官だと言われている。同長官はかねてより、パウエル・ドクトリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明している。
実際にイラク戦争では、
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における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によってイラク軍の指揮系統は早期に崩壊した。組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなくなり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った。
事前の大方の予想を裏切り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダッドまで進軍することに成功した。このことはアメリカの圧倒的軍事力を一時的なイメージだけであれ世界中に見せつける結果となった。軍事大国アメリカの存在感をいっそう高め、中東を始め世界各国に改めて示すことができた訳である。開戦前から戦争が泥沼化すると予想していた研究者もいたが、この初期の圧勝によって彼らの主張は全く受け入れられなかった。この軍事的成功はC4ISR化(指揮・統制・監視・偵察のIT化とコンピュータ化)をいっそう促し、RMA(軍事革命)という考え方が台頭する。中国人民解放軍もこうした新しい戦争には着目し、ハイテク環境下における局地戦や、三打三防戦略といったドクトリンを生み出している。