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糸満市公設市場
2004年4月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、占領後初めての大規模な戦闘が起こった(ファルージャの戦闘)。また、この頃から南部でもシーア派イスラム教徒が反米抗議を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5月に米兵によるイラク人捕虜虐待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せるに至る。6月に暫定政権が発足し、体制の構築が進むと、それに対応して攻撃も行われた。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙ったと思われるテロが相次ぐようになる。無防備ないわゆる「ソフトターゲット」と呼ばれる標的を狙うことについては、残党による手口だとは考えにくいと当時から囁かれた。また、この頃から、アルカーイダ系の武装集団がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。
さらに、南部に多いシーア派の過激派民兵が8月に武装蜂起し、南部最大の都市バスラを中心に米英軍と戦闘となった。シーア派民兵はムクタダー・サドルに率いられ、組織的な戦闘を行ったが、民兵側の犠牲が相当数に上り、イラク・シーア派の指導者アリー・シースターニーの停戦呼びかけに応じ、1ヶ月ほどで沈静化へ向かった。
続く11月にはアルカーイダ系の武装勢力(アメリカ軍は当時そう考えていた)の活動がファルージャで活発になり、アメリカ軍は「夜明け」と命名した作戦によって攻撃した(ファルージャの戦闘に詳細)。しかし事前に大々的報道がなされたため、目的であるザルカーウィーらアルカーイダ系テロリストは既に逃亡、武装勢力も散った後であった。米軍が直接制圧に当たっているが、12月後半には7割の地域で武装勢力が回復したと言われている。また、ザルカーウィーにしても、彼が真に武装勢力の指導者であったことに疑いの声が上がる。アルカーイダの犯行と思われた事件のほとんどはフセイン政権の残党によるものと言う見方が、現在では強まっている。アメリカはこの作戦「夜明け」を実行するに当たり、バグダッドの治安要員が足りなくなるため、イギリス政府に対して、バスラを中心としたイラク南東部を活動範囲としていたイギリス軍の一部をバグダッドに転戦させた。
ファルージャの戦闘の一方は米軍だったが、他の一方は「反米武装勢力」とは断定できない。
この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。とくに開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で2004年3月11日に列車爆破テロが発生したことは、派兵国に少なからず動揺を与えた。ブッシュ政権はイラクの治安悪化を理由として、派兵要員を13万人から15万に増強する旨を発表した。さらに2004年11月のアメリカ大統領選挙終了後は20万人に増強する動きもあったが、実際は14万5千人までの増強で抑えられた。2005年4月には憲法製作を行う移行政府が発足し、アメリカのイラク復興業務は次の段階に入った。
ところが、2005年の夏に起こったハリケーン「カトリーナ」の襲来時、肝心の被災地で活動すべき多くの州兵がイラクに派遣されていた事が大問題にされ、救難活動が遅れたために2千人近くが死亡したとする批判が国内から相次いだ。このためブッシュ政権は一部の兵力を本土に帰還させたため、イラク兵力は13万8千人となった。12月の議会選挙の際にはさらに多い15万5千人に増員したが、翌2006年2月には早々と13万6千人に削減し、3月には13万3千人となった。また、2月には正式な民主政権が発足する予定であった事から、ポーランド、韓国、イタリアに引き続き、イギリス、オーストラリア、日本が相次いで兵力削減・離脱を発表した。しかし、シーア派とスンニ派(あるいは石油資源を巡るクルド人)の対立から政権建設は難航し、22日のアスカリ廟爆破事件によって宗派対立に発展した。このため、日英豪3カ国の撤退計画は不透明なものとなった。
AH-64 アパッチのガンカメラから撮影されるイラク人の賊徒と疑われる人物。この直後アメリカ軍によって攻撃される。(2004年頃)アスカリ廟爆破以来、報復合戦となったシーア派とスンニ派の衝突は、3月に入ってからは沈静化したものの、一部で内戦の危機と報じられたが、多国籍軍はこれを否定した。しかし、一方で米メディアなどはイランの武装勢力が侵入してテロ工作をしていると報道し、アメリカ政府高官や軍もイランを(核開発問題を絡めて)非難している。しかし、イラク戦争自体が情報操作の産物だった過去の例を考えれば、またしてもアメリカの責任転嫁を目的とした情報操作である可能性もある(2007年9月現在、イラン関与の確たる証拠は公表されていない)。武装勢力にはイラク人がシーア派、スンニ派、クルド人のグループがそれぞれいくつもあり、シーア派にはイランからの支援が、スンニ派はシリアが援助しているとも言われる。ただし、シリアは少数派のシーア派系アラウィ派がスンニ派を支配する国家形態であり、イラクのスンニ派政権とは長年対立を続けてきたため、これに積極的な支援を与えているわけではないとの見方も存在する。また、フランスに海外拠点を置く旧バース党残党も他のスンニ派勢力と連携して活動を続けていると見られ(バグダッド市ドーラ地区、アザミヤ地区を実質的に支配)、国外からもイスラム原理主義勢力などが侵入していると「戦闘終結宣言」直後からささやかれていた。アメリカは内戦ではないと主張しているものの、実際のところ、これらの武装勢力が群雄割拠して、それぞれがテロ攻撃を繰り返しており、民間人の死者が増加し続けている。
一方、アメリカ兵の死者は2005年10月から減少に転じていたが、これは危険地域の警備をイラク警察や国家警備隊、親米武装勢力に移譲しているからだと指摘されている。この間、テロ発生件数は横ばいであるが、多国籍軍への攻撃は減少しており、その分イラク人を標的にしたものが増加した。 また、2006年10月からは宗派抗争を通じて影響力を更に強めた武装勢力各派が対米攻撃を再度激化させ、米軍死者数は再び増加の傾向を見せている。
また、2006年に入って、
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勢力がイラク人の技術者や知識人を巧妙に殺害していることがわかってきた。フセイン政権は国力となる知識階級を積極的に育成してきたが、武装勢力はこれらの人々を直接殺害、あるいは拉致してから殺害して死体を遺棄するなどの方法で、すでに医師が約300名、科学者が約100名、大学教授は80名以上が殺害された。知識階級はバース党員や旧政府の官僚が多かった為、抑圧されてきた勢力の犯行だと考えられるが、身代金目的の誘拐も数多い。このような治安悪化を理由として、40万人のイラク人が危険を感じて国外へ逃亡しており、国家の基礎体力低下は避けられない。2006年にイラクにいる医師は全土で2000名程度と見られている。
このため、イラク国内において、故意にイラクを弱体化させようと動く勢力の存在が浮かび上がっている。また、フセインは初等教育にも力を入れており、湾岸戦争前に9割あった(とされた)識字率も、戦後の経済制裁とこの戦争、続く統治の失策によって5割を下回っている。
2006年4月に入ると、エジプトやサウジアラビアの要人が相次いで「イラクは内戦である」と発言し、イラク移行政府が強く反発した。しかし国内はシーア派とスンニ派による抗争が過激化し、連日テロや殺戮が起こっていた。スンニ派が反発したのは移行政府首相がシーア派過激派のサドルと親密だったからである。4月22日、シーア派系議員連合「統一イラク同盟」(UIA)は、首相にジャワド・マリキを擁立した。スンニ派とクルド人も容認し、連邦議会が再開した。4月26日には早くもアメリカ政府からラムズフェルド国防長官とライス国務長官が相次いでイラク入りし、これを歓迎した。
閣僚についての決定は、各宗派の調整に手間取り、閣僚をそれぞれの宗派の議席に割り当てることで合意するが、国防相と内務相をマリクが兼任すると言う暫定的な形となった。5月20日にマリクが閣僚名簿を読み上げ、議会が賛成して承認され、正式政府が発足した。フセイン政権崩壊から3年が経過していた。アメリカ軍は、政権発足時に25万4000人のイラク治安部隊を32万5000人に増強し、12月までに95パーセントを達成するとした。しかし、アメリカ軍の撤退については、ラムズフェルド長官は「削減できればいいが、約束はできない」と発言した。
政権発足直後の6月7日、マリキ首相とアメリカ軍は共同で、イラク国内でテロを誘発してきたとされるザルカーウィー容疑者を、空爆作戦によって殺害したと発表した。成果は発足直後のアピールとして強調され、6月13日にはブッシュ大統領が
外為
訪問してマリキを祝福したが、ザルカーウィーの配下は1,000名程度とされる一方、イラク全土の武装集団は20,000名以上と推測されており、アルカーイダも直後に後継者を発表したことから、政治的にも戦略的にも効果は薄いと見られる。実際、その後も一般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などは相次ぎ、2006年内のイラク国民の死者は3万4000人以上となった。政権発足後も状況に大きな変化はなく、米国政府とマリキ政権は相互不信に陥りつつあるといわれる。
イラク政府は同国の安定化を模索する国際会議を3月10日にバグダッドで開催すると発表した。イランやシリアを含む周辺諸国のほか、米国をはじめとする国連安保理の5常任理事国、アラブ連盟、イスラム諸国会議機構 (OIC) が招待された。4月にも開催予定で日本などサミット参加国も加わる。米側は国務省報道官の記者会見などで路肩爆弾による米兵への攻撃問題を取り上げたいと表明した。
2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑が執行された(→サッダーム・フセインの死刑執行)。
イラクのスンニ派の町では米軍に対する攻撃が盛んであるが、国外から侵入するアルカーイダ系勢力に対しても外国の武装勢力だとして武力衝突が生じていた。その一方で資金力に優れるアルカーイダと一部スンニ派武装勢力が対米攻撃で協力関係を結ぶなど、スンニ派地域へのアルカーイダの浸透も進んでいた。
そこでアメリカ軍はイラクのアルカーイダ系組織の幹部ザルカーウィーの脅威を強調し、ザルカーウィー派掃討を目的とした空爆などの過激な攻撃をスンニ派地域で繰り返した(結果として2006年6月のザルカーウィー殺害後もイラク情勢への影響はあまりなかった)。この時スンニ派の間では、攻撃による巻き添え被害の大きさからザルカーウィーを追放しようとする動きが強まった。
2007年に入り、アルカーイダの過激な
外国為替
に反発するスンニ派市民までがテロの対象とされ、塩素ガスを用いたテロによる多数の被害者をだし両者間の溝が表面化した。4月には主要なスンニ派武装勢力のひとつ「イラク・イスラム軍」が構成員30人をアルカーイダに殺害されたとして、ビン・ラーディンに対する非難声明をだした。
こうした「反アルカーイダのスンニ派」と「アルカーイダ系スンニ派」の対立のなかで、アメリカ軍が反アルカーイダのスンニ派部族と協力関係を持つなど、事態は一層複雑化している。6月25日バグダッド中心部にあるマンスール・ホテルのロビーで発生した自爆テロでは、アルカーイダ系過激派との戦いに協力した6人のスンニ派部族指導者が殺害された。[21]